ピクシブにあげたもの
出会いから10年。
矢澤にこにー(27)と西木野女史(25)のお話。
ピピピピという電子音にふと目が覚める。
「ん…あさ…?」
カーテンの隙間から差し込む光は薄暗く、まだ日が完全に昇りきっていないことを明確にしている。
まだ半分寝惚けた状態で、もぞもぞと手だけ動かす。伸ばした先はベッド横の机に置いたスマートフォン。薄暗くてよく見えないせいで何度か空振りを繰り返した。
「ん…」
やっとのことで馴染み深い長方形のそれに手が触れ、目的の物に辿り着いたことを教えてくれる。
正直、眠気MAXでスマフォを操作するのも億劫だったが、今も鳴り続けているアラームを止めなければいけないためそうも言ってられない。さっと素早くアラームを止めて、それからぼんやりとする頭で時間をチェックする。
ただ今の時刻、午前5時。正確には5時を1分ほど過ぎていた。朝のラジオ体操に参加する夏休み真っ最中の小学生だって未だに夢の中にいるような早朝、例外はあるにしても普通なら誰もが寝入っているような時間帯なのは間違いない。
私、矢澤にこの朝はとにかく早い。
いや、早くなったというべきか。
「…うう…ねむい…」
できることなら2度寝したい。このまま目を閉じて泥のように眠りたい。
無論、起きなければいけないということはわかっている。わかっているが、そんな意に反する衝動を止められない。さすが人間の三大欲求の一つだ。欲望に逆らおうというからにはそれなりの覚悟が必要というわけか。
なんて、ぼやけた思考回路で無駄な時間稼ぎを続ける私。実際問題として、本当に刻一刻と貴重な時間は過ぎていくのだからやり切れない。やはり時間の流れとは残酷なものだ。黙っていたって、何もしなくても、過ぎていくのだから。
「…あーはいはい…起きますよ…起きればいいんでしょ…まったく…」
自身に対しての文句を並べつつも起きることを忘れない。もぞもぞとベッドから身を起こし、それから両腕を天井に放って「ん~」と大きく伸びをした。あんなに重かった瞼がそれだけで少し軽くなった気がする。
「ふわぁ~…ん……おはよー…真姫ちゃん」
「…すぅ…んん…すぅ」
生理現象のあくびを噛みしめながらも、隣で眠る相方への挨拶は忘れない。が、返ってきたのは挨拶らしからぬ静かな寝息だった。
真姫ちゃんの新居に移り住んでからそろそろひと月は経とうかという頃。すでに日常となりつつあるいつも通りの朝の光景に、ひどく安心感を覚える。自然と笑みがこぼれた。
「…お姫様はまだ夢の中か…」
普段キリッと凛々くてカッコいい真姫ちゃんだけど、寝ているときは天使と言って差し支えないほど可愛い寝顔だ。もともと可愛いけど、寝ているときはいつもの3倍くらい可愛い気がする。口を開けば相変わらず小生意気なのは変わらずだけど、それも御愛嬌と言えばそう、彼女の魅力の一つと言っても大袈裟じゃない。
「昨日も夜遅くまで仕事だったもんね…疲れてて当然か」
そう呟いて、真姫ちゃんを起こさないように細心の注意を払いながら、その燃えるような真紅の髪にそっと手を伸ばした。
軽く梳いてみると、綺麗な髪の毛が指先からさらっとこぼれ落ちる。ちょっとくすぐったくて、でも気持ちよくて、ずっと触っていたい衝動に駆られる。
しかし、時間は待ってはくれないのが現実だ。
「さて、と…じゃあ朝ごはんのしたくしてくるから、もうちょっと寝ててね、真姫ちゃん…」
「…ん…すぅ」
幼い子供みたいなあどけない寝顔。返事はないけれど、それでいい。疲れているのをわざわざ起こす必要もない。ギリギリまで寝かせといてあげよう。だからこそ、私がいるんだし。
だって、真姫ちゃんを起こすのは私の役目だもの。気付けば密かな楽しみと言ってもいい朝のひととき。この先もずっとそうしていきたいって思っていたりもする……わりと本気で。
こんな小さな事で幸せを感じてしまうなんて、私はなんて単純な人間なんだろう。
でも、それでいいのかもしれない。
朝起きて、隣には愛しい人がいて、普段見せないような可愛い寝顔を晒して、ほっぺにキスしたって起きないくせに、唇にしたときは途端に目を覚ます困った眠り姫。
私の、たった一人の特別な人――西木野真姫。
この子に出会わなかった未来なんて、もはや想像もできない。運命と言えば聞こえはいいが、それはある意味人生の束縛だとも思う。私はこの子出会うために生まれてきたんじゃないかって、決まったレールの上を歩かされているんじゃないかって、そう思えて仕方がない。
なのに、それを幸せなことだと感じている自分がいる。
これも、真姫ちゃんへの想いの強さ故だろうか。
「……大好きだよ、真姫ちゃん」
思えば、こうして気持ちを口にするのは初めてかもしれない。
同居生活を持ち掛けられた時から、ううん、自分の気持ちに気付いたときから、きっとこういう関係になるだろうとは予想していたけれど、あの日記事件が衝撃的過ぎて、いまだに面と向かって愛の言葉を告げられないでいた。
(はぁ…私もたいがいヘタレだよねぇ…)
たった一言、「好き」と告げられたらそれだけでいいのに。
真姫ちゃんはあれから何も言ってくれないけど、彼女の想いは文字通り身に染みている。ここに引っ越してきてからこっち、そう言った情事がなかったと言えばもちろん嘘になる。
気持ちは通じてるから言葉は必要ない、なんて、真姫ちゃんらしいと言えばらしいけど、それじゃ私としても収まりがつかない。それで日々悶々としている現状、そろそろ私も覚悟を決めなくちゃいけないのかも。
長いこと待たせちゃった分、責任は取らなきゃいけないと思ってる。だからこそ、しっかりと自分の口から告げたい。酔った勢いでした告白なんてこの際ノーカンだ。
大切なのは今。昔に何があったかなんて関係なく、今の私が真姫ちゃんをどう思っているかが大切なのだから――、
「――と、いけないいけない…いいかげん準備しないと、真姫ちゃんが遅刻しちゃう!」
ボーっと寝顔見つめ続けて数分、ふいにハッと我に返った。
まったく、真姫ちゃんの寝顔を見ていると思うところがあり過ぎて困る。そりゃ考えなきゃいけないことは山ほどあるけど、それで真姫ちゃんに迷惑かけてたら本末転倒だ。
時計を見るとすでに5時10分を回っていた。余裕をもって起きてはいるから問題はないが、早いに越した事はないので早々に準備に取り掛かった。
もちろん、真姫ちゃんのほっぺにキスするのは忘れずに――。
※
櫛で梳いた漆黒の髪をシュシュでまとめる。
思えばいつからだろうか、このサイドでまとめるヘアスタイルになったのは。
高校時代はツインテールだったし、大学時代は希みたいに後ろ髪を2つでまとめていたが、社会人となった今、気付いた頃にはこうなっていた。何より楽だったし。
「真姫ちゃん…やっぱり今日も遅いのかな」
洗面台で軽く身だしなみを整えながら、無意識に呟いていた。その声色からは、彼女を案じるような感情が滲み出ている。私自身も自覚していることだった。
こうして一緒に暮らすようになって気付いたが、真姫ちゃんに比べたら私はまだ時間に融通の利く生活を送っていると思う。確かに仕事は忙しいが、それはまだ常識の範囲内での忙しさと言えた。
だからこそ、真姫ちゃんと暮らし始めてひとつ気付いたことがある。
それは、彼女の生活があまりに不規則だ、ということ。多忙なのは言うまでもないが、医師という職業についているが故か、出勤時間も帰宅時間もバラバラで、早朝に出ていったかと思えば、帰りが深夜になることもざらにあって、最悪の場合、病院にそのまま泊まり込むこともあった。
西木野総合病院の跡継ぎと言うだけでそれなりのプレッシャーを感じているだろうに。それでも真姫ちゃんは、たとえ目の回るような忙しさでも、命を預かる職業についている以上、“責任”の2文字を背負って泣き言一つ言わないで頑張っているのだ。
正直、誰にでもできることじゃない。
そんな彼女を応援したい。だけど心配なのも事実。こんな生活を延々と続けていたら、それこそ患者より先に真姫ちゃんが倒れてしまうんじゃないかって。嫌な不安は拭えないし、きっとこの先もこの不安が消えることはないだろう。
だから私は決めたんだ。
真姫ちゃんの支えになろうって――。
真姫ちゃんと生活を共にするようになって、私は密かに誓いを立てた。
私に出来ることなんてそんなに多くはない。けれど、真姫ちゃんの身の周りの世話をするくらいならできる。いや、私にしかできないことだ。むしろ譲る気なんて毛頭ない。
真姫ちゃんが帰る場所は私が守る。彼女が安心して日々の生活を送れるように、真姫ちゃんがいつも笑顔でいられるように、私が真姫ちゃんの笑顔の素になろうって決めたんだ。
「ふふ、なんだかおかしいわね…」
だけど、鏡に映る真紅の瞳に迷いはない。やるって決めた。ならあとはやり通すだけだ。
『アイドルは笑顔を見せる仕事じゃない! 笑顔にさせる仕事なのよ!』
μ'sだった頃、私が確かに口にした言葉。あの頃の気持ちは、今も私の心の奥底に深く根付いてる。
ねぇ真姫ちゃん、私は、真姫ちゃんのアイドルになれるかな?
(ううん…なれるかな、じゃなくて、なるんだ…絶対に)
真姫ちゃんのためにも、私自身のためにも。
決意も新たに、私の朝はこうして始まった。
※
ここ西木野家は、都内有数を誇る高級マンションだ。
オートロックに防音完備など、ごく普通のアパート暮らしだった私には当初驚きの連続だった。そんな場所に、真姫ちゃんの提案とは言え、まさか私まで住むことになるとは誰が予想できただろう。
西木野病院からも近いためもともと実家暮らしだった真姫ちゃんだったが、何を思ったのか、25歳にしてようやく自立に踏み切ったらしいことは後から聞いた話だった。
当然、今まで真姫ちゃんのお母さんやお手伝いさん頼りだった真姫ちゃんも、ついに“家事”という壁にぶち当たるわけだ。
真姫ちゃんのお母さんにくれぐれもよろしく頼むとお願いされた理由がわかったのは、引越しから一週間ほど経ったあとだった。正直な話、もし私が越してこなかったらどうなっていたのかと、背筋がゾッとする思いだ。
結果から言えば、真姫ちゃんはとにかく一人暮らしスキルが皆無だった。
とりあえずボタンを押せばなんとかなると思っているのだから救いようがない。
自炊なんてもってのほかだと確信したのは炊飯器でごはんを炊かせた時だった。まさかお米を入れて水入れてスイッチ入れれば完成すると思っているとは思わなかった。まず第一段階として「お米を研ぐ」という最低条件の工程が抜けていたのだから。
これならさすがに大丈夫と思って洗濯をやらせて見ても、案の定、洗濯機に洗いモノを全部ぶち込んで、洗剤入れて、スイッチオンだ。せめて色落ちするものは分けてよ、お願いだから。
それならば一か八か電子レンジはどうかと思って使わせてみれば、何故入れようと思ったのか理解に苦しむが、投入されたのはまさかの生卵。真姫ちゃん曰く「ゆで卵作ろうと思って…」だそうだが、その後どうなったかは想像に苦しくないだろう。
他にも色々と愚痴りたいことは山ほどあるが、私がいる以上は真姫ちゃんに不自由な暮らしをさせるつもりはないのでこれ以上は割愛しておく。実のところ、真姫ちゃんの暮らしを守らなきゃいけないと思ったのは、こういう事実も大きな要因だった。
「ふんふふ~ん♪」
エプロンのフリルを揺らしつつ、楽しげな鼻歌と共にきざまれるリズミカルな包丁の音。
トントントントンとまな板を叩く音が耳に心地いい。
新鮮な野菜をほどよいサイズに切り、皿に盛り付けグッとガッツポーズを決めた。
「よっしサラダ完成! お次はタマゴちゃんねー…と、そろそろ卵も切れそうねぇ。仕事帰りに買って帰ろうかしら」
あれからだいぶ日が昇り、空は明るんできていた。開かれたカーテンから朝日が差し込み、心地のいい朝を演出している。ベランダに止まったことりの囀りをBGMに、私は上機嫌で朝食の準備に精を出す。
今日の朝のメニューはトーストにベーコンエッグ、それから野菜たっぷりサラダの盛り合わせだ。簡単だし、美味しいし、何より朝の短い時間で食べる分には丁度いい量だった。
ちなみに朝は和食と洋食を交互に作るようにしている。食べる人を飽きさせないようにと、日々工夫しながら食事を作るのが矢澤流だ。
おかげで真姫ちゃんにも好評で「シェフが作る料理なんかよりよっぽど美味しい」なんてお世辞を言われたりもしたっけ。さすがにそれは言いすぎだと思うけどね。
油を引いたフライパンにベーコンを入れ、それから卵を片手で割って落とした。
「ふんふんふふーん♪ ベーコンカリッと中は半熟~♪」
上機嫌もここに極まった。そして遂に、
「――っと、これで…完成っ!」
ジュージューと肉と卵の焼ける香ばしい香りが食欲をそそる。焼き加減上々のところを見計らって塩コショウで味を付ける。それから火を止めてフライ返しでサッと皿に移した。
と、その時丁度トーストが焼きあがったのか、トースターがチンっと音を立てた。
「よっし!さすが私、タイミングばっちりね。さてと、それじゃそろそろ真姫ちゃん起こしてきましょうかね~――って」
出来あがった料理をテキパキとテーブルに並べていき、件の眠り姫を起こしにさて寝室へ――と思ったその矢先、寝室へと続く扉に手をかけた瞬間、驚くべき光景を目の当たりにした。
私が手を触れる前に扉が開いたのだ。
「ふわ…」
そんな可愛らしいあくびと共に現れたのは何を隠そうパジャマ姿の真姫ちゃんだった。まぁ、この家には私と真姫ちゃん以外は住んでいないので、私じゃなければ必然的に真姫ちゃんとなるわけだが。
「ま、真姫ちゃん? お、おはよう…」
珍しいこともあるものだと思った。いつもなら私が起こしにいかなきゃ全然起きないのに。まさか天変地異の前触れか、と変に勘ぐってしまう。まぁそれはないにしても、ちょっと残念だった。おはようのチュー、できなかったし。
「ん…おはよ…にこちゃん…」
寝惚け眼でくしくしと目元をこすっている姿は、歳に似合わずこどもっぽい仕草。けど無駄に可愛い。可愛すぎて食べてしまいたい。普段とのギャップにちょっぴり萌えてしまう私だったが、さすがに朝っぱらかハイテンションこの上なく奇声を発するわけにもいけないので、ここは自重しておく。
「えーと、朝ごはん出来てるよ。……とりあえず、顔洗ってきたら?」
「ん…そーする」
どうやらまだ半分くらい寝惚けているらしい。真姫ちゃんは別に朝に弱いというわけじゃないけど、朝は大体いつもこんな感じだった。ふらふらと危なっかしい足取りで洗面所へと足を運ぶ真姫ちゃんの後ろ姿を見つめながら、ちょっぴりおかしくなって笑ってしまった。
戸棚からとりだしたコーヒーカップにコーヒーを注いでいると、顔を洗ってすっきりした真姫ちゃんが戻ってきた。
「おはよう、にこちゃん」
「ぷっ♪ もぅ、さっきも挨拶したよ? 覚えてないの?」
「う゛ぇえ? え、えーと、わかんない…したような、しなかったような…?」
「はぁ、珍しく一人で起きてくるからなにごとかと思ったけど、やっぱり真姫ちゃんは真姫ちゃんだよねぇ」
「な、何よそれ…いみわかんない」
「わからなくて結構! さ、朝ごはん冷めちゃうからさっさと食べちゃおう?」
「そ、そうね」
真姫ちゃんはいそいそと席について、目の前の料理に向かって両手を合わせた。
「え、えーと…い、いただきます」
「はい、めしあがれ♪」
そう言って満面の笑顔で返すと、真姫ちゃんは恥ずかしそうに頬を赤らめて、顔をそらしてしまった。
一緒に暮らし始めて結構経つのに、相変わらず真姫ちゃんはこう言った些細なやり取りに慣れないらしい。
「にこちゃんって、たまにズルいよね」
「ええ~なんでぇ?」
真姫ちゃんが言うにはそうらしいけど、残念ながら理由は教えてもらえなかった。
※
朝食が終われば、後は真姫ちゃんを病院に送り出すだけ。
それで私の毎朝の日課はほぼ終わりを告げるわけだが、“ほぼ“という部分に、この後の自分の身支度が含まれているのは言うまでもない。私も私で仕事があるのだから当然と言えば当然の作業だ。
食べ終えた食器を片づけながら、私は真姫ちゃんを待つ。私が洗い物をしている間に真姫ちゃんが身支度を済ませるのが、気づけば暗黙の了解になりつつあった。そして洗い物が終わる頃にはビシッとメイクを決め、スーツと白衣に身を包んだドクター真姫ちゃんが完成しているのだ。
「それじゃ、行ってくるわね」
玄関まで見送りにきた私は、いつも通り例の物を手渡した。
「はい真姫ちゃん、これお弁当」
「あ、ありがと。その、いつも悪いわね」
ピンクの巾着袋を受け取りながら、お礼と一緒に謝罪の言葉。
「気にしなくていいわよ、そんなこと」
「だ、だけど毎朝毎朝作るの大変じゃないの? 朝ごはんとか、お弁当とか…」
「え? ん~、別に大変だと思ったことはないけど…。好きだからやってるってのもあるし、それに昔っから自炊するのが当たり前だったしね。お弁当だって1人分作るのも2人分作るのもあんまり変わらないもん」
「そ、そう? ならいいけど…」
「それに、真姫ちゃんのことだから、放っておいたら毎日コンビニ弁当になっちゃうでしょ? そんなの私が許しません。お金だってもったいないんだからね」
「う゛ぇえ゛!? べ、別に、私だって頑張ればお弁当くらい…!」
「おにぎりも握れないお嬢様が何言ってんのよ、まったく…」
「う、うるさいわね…!」
「言っとくけど、私がここにいる限り、真姫ちゃんの食生活の管理は私がするって決めてるんだから。電子レンジもろくに使えない真姫ちゃんは黙って言うこと聞いてればいいのよ」
有無を言わせずそう言ってやると、真姫ちゃんは苦い記憶を思い出したように顔を羞恥の色に染めた。
「わ、わかったわよ! もぅ! いちいち突っかかる言い方しないでよ! これでも結構気にしてるんだから!」
「あーはいはい。それで? 他に忘れ物ない?」
「な、ないわよ…。あぁ、それと今日は早く帰れると思うから」
「ああそうなんだ…って、え? ホ、ホント!?」
何気ない発言だったが、私にとってはとんだ朗報だった。一瞬スルーしそうになったけど、そうは問屋が卸さない。
「な、なによ? そんなに大きな声出して…何かあるの?」
不思議そうに首をかしげる真姫ちゃんに、私はふるふると首をふって、
「ううん、ただ早く帰ってこれるなら、今日は一緒に晩御飯食べられるかなって思って」
「え? う、うん…食べれると思うけど、たぶん19時くらいには帰ってこれると思うし…」
でもそんなに大騒ぎすること? と、真姫ちゃんは付け足した。
「もー、真姫ちゃんってホント察しが悪いわよね」
にこちゃんにだけは言われたくないわよ!と憤慨する真姫ちゃんに、私はふっと微笑む。
「ほら、私たちって朝は大体一緒だけど夜はなかなか時間合わないじゃない?」
「……まぁ、そうね。でもそれは――」
真姫ちゃんの言葉をさえぎるように、私は頷いて見せた。
「うん、仕方ないってことはわかってる。お互い仕事だもんね。それはしょうがないよ」
お互い仕事ですれ違ってばかりだけど、会えない時間はきっと互いの気持ちをより強固なものにしてくれていると信じてる。傍から見れば些細なことだとしても、好きな人とより長い時間を共にできるなら、それはとても幸せなことだと思う。
「だからね、ほんの少しでも真姫ちゃんと一緒にいられる時間が増えて嬉しいなって、そう思ったんだ」
そう言って、嬉々とした感情をそのまま笑顔で真姫ちゃんに返した。
「っ」
すると真姫ちゃんの顔が一瞬にして真っ赤に染まった。髪と顔の境がわからなくなるほどの真紅。まるでリンゴとかトマトみたいだなってちょっと思ったけど、
「~~~!」
「ど、どうかした真姫ちゃん?」
突然、頭から蒸気を発する真姫ちゃんに困惑するも、真姫ちゃんは待ったなしに後ろを向いてしまった。その様子は怒りからくるものじゃなく、照れからくるものだってのは見ればわかるけど、一体何が真姫ちゃんの琴線に触れたんだろうかと不思議に思う。
私、何か変な事言ったっけ?
「やっぱり…にこちゃんってズルい」
「ま、真姫ちゃん?」
「っ…と、とりあえず行ってくるから! バイバイ!」
鞄に手をかけ、忙しなく出て行こうとする真姫ちゃんだったが、私はあることに気付いて「あっ!」と声を漏らす。
「真姫ちゃん真姫ちゃん! 忘れ物してるよ!」
「さ、さっきも確認したけど忘れ物なんて――」
真姫ちゃんが振り向いたときにはもう、私はとっくにその距離を詰めていた。その胸に飛び込んで、精一杯背伸びをして、驚いたように目を見開く真姫ちゃんを無視して、うっすらと開かれた瑞々しい唇に自分の唇を重ねていた。
触れていた時間なんてほんの数秒。だけど、それだけで十分。十分すぎるほど、気持ちは伝わるはずだから。
唇をそっと離して、いまだ何が起こったかわからないような顔で唖然としてる真姫ちゃんに一言こう告げた。
「行ってきますのチュー、忘れてるよ?」
唇に人差し指を当てて悪戯っぽい笑みを浮かべると、ようやく時が動き出した真姫ちゃんの体がわなわなと震え始める。
「に、」
「に?」
「にこちゃんのばかぁぁーー!!」
いくら防音完備のマンションとは言え、真姫ちゃんのビューティーボイスでスクリームされたら、壁の1枚や2枚余裕で貫通しちゃうんじゃなかろうか、なんて。そんなどうでもいいことをちょっと思ってしまう。
「いってらっしゃい! 頑張ってね真姫ちゃん! 今晩はうんと美味しいごちそう作って待ってるから!」
真っ赤な顔で飛び出していく真姫ちゃんの背中に手を振って送り出す。
さーて、今夜の献立は何がいいかな?