ピクシブにあげたもの
出会いから10年後。
矢澤にこにー(27)と西木野女史(25)のお話。
私の人生最大の失敗は、たぶん真姫ちゃんに出会ってしまったこと。
※
――始まりは、一冊の日記帳。
都心に点々と並ぶとあるアパートの一室で一人の少女――否、一見少女にも見える妙齢の女性(外見年齢永遠の○学生)――が、夜遅くだということも忘れて声を荒げた。
「うわっ、懐かしー!」
あるじに忘れ去られそれなりに時間が経っているだろうそれは、机の奥で鳴りを潜め、いつの日か日の目を見ることを夢見て今日まで生き延びてきたらしい。
まさか何となくで始めた掃除がきっかけで、またこうしてお目にかかれるとは思ってもみなかった。
発見したのは何の変哲もないただの日記帳だった。
多少古ぼけてはいるけど、私の目に映るそれは自分の嘘偽りない過去を記した記録のはず。どうしてそんなものが今になって出てきたのか、ふと不思議に思う。こう言った偶然は素直に喜ばしいのだが、はたしてこれは偶然なのか、それとも神様の見えざる手が働いたのか、それとも何かしらよくないことが起こる前兆なのか。
あらゆる可能性を考えてはみたものの、それ以上に手の中の重量感に懐かしさを覚え、途端にどうでもよくなっていた。
あれから結構経ったなぁ…なんてしみじみ考えながらそっと日記帳に手をかけた瞬間、ピタリと体が硬直する。
「……な、なんか昔の日記帳覗くのって勇気いるんだけど…へ、変なこと書いてないわよね?」
勝手知ったる自分の日記帳…のはず。
しかし、まるで他人の日記帳を除き見るような感覚だったのは何故あろう、日記を書いていた頃からそれなりに年月が経過しているからである。
高校卒業と同時に買ったそれ。大学入学の際、新たな気持ちでスタートを切った私が何となくで書き始めた日記帳だった。真姫ちゃんには「にこちゃんが日記? 三日坊主にならなきゃいいけど」なんて小生意気にも鼻で笑われたりしていたが…。
今にして思えばあの頃はテンションMAXだった気がする。何をするにも行き当たりばったりだったけど、とにかく毎日が楽しくて楽しくて仕方がなかったような。
「…にこも、昔の自分の行動を恥ずかしいなんて思えるくらいには大人になったのかもね…はぁ」
時の流れとはかくも残酷なものなのか。自分のことなのに自分がわからない。だいぶ落ち着いてきた今だからこそ、過去を振り返ると溜息しかでてこない。黒歴史というのはこういうことを言うのかもしれない。
「しかもこの日記もあんまり続かなかったしね。……いつから書かなくなったんだっけ?」
三日坊主とは言わないまでも、結局は真姫ちゃんの言うとおりになっていたことに苦笑する。
昔の記憶を辿ると、就活やら就職後の忙しさからいつの間にか書くのをやめていたらしい。らしい、というのは私自身その頃の記憶が曖昧だから。しかもそれからさらに数年である。すでにそれは日記帳と言うよりも小学校の頃に書いた『将来の夢』とかそういう類の何かになっていた。
「……ふぅ」
私はベッドに腰掛け、それから軽く深呼吸。それから恐る恐る日記帳のページを開いた。
気になるものは気になるもので、見ないという選択肢ははなからなかった。
「…あー…間違いなく私の字だわね…」
意を決して開くとそこには、目も当てられないような他愛ない日常のエピソードから赤裸々な恥ずかしい出来事まで所狭しと駆け巡っていた。
こうして改めて見返すと、大学時代もそれなりに楽しくやっていたのだろう、と他人事のように感じてしまう。
「……でもまぁ、なんだかんだいって、やっぱりあのころが一番だけどね…」
確かに楽しかったは楽しかった。けど、やっぱりμ'sとしてアイドル活動していた高校3年生が今までの人生の中で一番楽しかったのは疑わない事実だった。たとえ最近の記憶は色あせても、あの頃の記憶だけは今でも目を閉じただけで鮮明に思い出せるくらい輝いている。
「にしても…うーん…やっぱ今見るとちょっとこっぱずかしいわね…」
気付けば私は日記を読みふけっていた。仕事が忙しく中々できなかったお掃除タイムの真っ最中だというのに。しかし開けば開くほどその頃の記憶が蘇ってきて、まるで宝石箱でも開けたようなドキドキした感覚が胸を躍らせる。
「懐かしいなぁ。そうそう、こんな事もあったよねぇ」
あの頃は私も若かった、なんて。もちろん今も全然若いけど。まだ20代だしね。うん。
日記に書かれていることなんてそれこそ本当に些細な出来事ばかり。若干、真姫ちゃんのことが書かれている記事が多いのは気のせいということにしておいて、大学生活のことはもちろんのこと、その日に食べた夕飯だとか、その頃ハマっていたドラマの内容だったりとか、本当に日記かと疑いたくなるような内容ばかりだけど、それでもやはり懐かしいものは懐かしいのだ。
「はぁ~あ…もうあれから5年かぁ…私ももういい加減いい歳――」
――じゃないし!! 思わず口から出掛かった発言を飲み込んでハッと我に返る。
意味もなくキョロキョロと辺りを見回しつつ「げふんげふんっ!」とわざとらしい咳払いでお茶を濁す。
別に誰も見ていないし誰も聞いていない。しかしこの歳の頃の女性と言うのは色々と複雑なのだからして、とりあえず察してほしい。
「う、ううん!私なんてまだまだ若いし!若造のひよっこだし!絵里とか希に比べたらまだまだぴっちぴちの取れたて果実だもん!」
よくよく考えたら同い年だが、絵里や希が聞いたら焼き土下座だけじゃ済まないような暴言がところどころ飛び出す。冷静さを欠いた私には事の重大さにまったく気づいていなかった。
「こっ、ここっ、恋人だって引く手数多だしぃ!!」
人知れず咆哮。誰に対してでもない言い訳が次から次へと飛び交った。
もうやめて!にこのライフはもうゼロよ!!
(…くっ…べ、別に彼氏なんていなくたって、生活には何の支障もないし…!)
ここだけの話、今年27歳となる私は未だに恋人と言うものに縁がない。勤め先はほとんど女性ばかりで出会いなんて欠片もなく、だいいち仕事が忙しくてそれどころじゃないのだ。たまに合コンに参加してみたって、そもそも合コンに女漁りに来てるような奴らなんてこっちから願い下げだったし。
(うぅ…あの頃に、戻りたい…!)
ある意味、切実な願い。だけど、そんなのタイムマシンでもない限り無理だった。現代科学ではまさに不可能の領域。
でもあの頃、μ'sとしてアイドルしてた頃にさえ戻れればそれこそ引く手数多なのだからそう思うのも仕方がない。
スクールアイドルをしていた頃は、それこそ告白やらラブレターやら日常茶飯事だった。だけどアイドルに恋愛は厳禁だと言い聞かせていた私には、チャンスは売るほどあってもそれを結果として残せないのがすべてだったのだ。
(…この歳で『彼氏いない暦=年齢』だなんて洒落にもなってないわよねぇ…)
いや、必ずしもいなければいけないなんて決まりはないんだけど。
しかし、華の大台に片足を突っ込みかけているからこそ色々と精神的に追い詰められている。それにこのままレベル30までアレを貫き通したら不本意ながら妖精ティンカーベルへとクラスチェンジして――、
(――オーマイガッ!! おねがい!誰か私の心の膜を突き破って!この際誰でもいいから!)
なんて、もはやなりふり構ってられない心の声。誰か本気で止めてほしい。
(こうなったらお見合い写真でも親に送ってもらって片っ端から――)
なんて思ってみたところでやはり最後の一歩を踏み出す勇気はもてない臆病な私。
そんな私に救いの手があるとすればそれは……、
「うぅ…私の青春ってホント寂しすぎでしょ…浮いた話の一つも出てこないなんて、今までの私は一体何をやってたのよぅ…ぐす」
半ば放心した様子でパラパラとページを捲っていたが、ある時ピタリと手が止まる。
「…ん? あ、え、何これ…?」
気付けば最後のページまで飛んでいたらしい。だけど何故か最後のページに何やらずらずらと書き綴られている。
これは一体全体どういうことだろう?
半分以上は埋まっている日記帳だが、まだまだ白紙だらけの未完成な日記帳なのに。明らかに他の日と比べると長文で…というか1ページまるごと使って書かれた日記が一際目立っていた。
まるでその出来事だけは絶対に忘れないようにとしているようで。とどのつまり、何年何月地球が何回回った日かはわからないが、その日は何か特別なことがあった日ということなのだろうか。
「んん??」
正直、記憶にない。記憶にはないが、たとえ覚えていなくてもそうなのだろう。こうして形として残ってしまっているのだから。
でも、それにしたって一体何が…。
「えーと、何々…」
幸か不幸か、偶然か必然か、私はついに《それ》を見つけてしまったのだ。すでに私はかじりつくように読み進めていた。それが今後の自分の人生を左右するパンドラの箱だとも知らずに……。
――20XX年4月19日(晴れ)
「20××年の4月19日?…って、4月19日って真姫ちゃんの誕生日じゃん」
それは忘れもしないあの子の誕生日。毎年祝ってあげてるのだから忘れようもない。しかも20XX年ということは真姫ちゃんがちょうど二十歳の時の誕生日で――、
『――せ、責任取ればいいんでしょ! わかったわよ! にこちゃんは私の嫁っ…こ、これでいいでしょ!!』
あれ? 今何か、思い出しそうに…。
偽りない過去を記したであろうそれは、忘れかけた記憶を呼び起こすきっかけとなった。
「あ…あー…? なんかお祝いとかそんなのしたような…しなかったような? いやしたよね、確か」
わからないけど、その時の記憶が曖昧だった。まるで霧がかかったようにもやもやとしていて。
それに何故か、とてつもなく嫌な予感がした。一夜の過ち――というタイトルに自然と体がこわばる。どうしても不安が拭えない。ごくりと生唾を飲み込みつつ、恐る恐る次の文を読み進めた次の瞬間、その嫌な予感は確信に変わった。
――その日私は、お嫁にいけない体にされてしまった。
「お、おやおや~…? どどど、どーゆーことかなぁこれはぁ…?」
意味不明な文面に疑問符を浮かべつつも、それが事実だと言わんばかりに全身の毛穴から汗が吹き出すような感覚。おまけに病気にでもかかったんじゃないかと思うくらい心臓の動悸が激しくなっていた。これでは記憶として忘れていても体が覚えているみたいではないか。
これ以上読んじゃダメだと私の全神経が警笛を鳴らす。しかしそんな警告とは裏腹に私の好奇心はすでにあの日の出来事を追っていた。
――真姫ちゃんの二十歳の誕生日。やっとお酒が飲める歳になった真姫ちゃんと誕生日のお祝いもかねてお酒を飲みにいった。…でも…、
(…でも?でもって何よ?)
――今日は無礼講だよFoo!!!なんてテンションMAXで考えてたのがそもそもの失敗だったのかもしれない。
(失敗…? 何を失敗したのよ? やめてよ不安になるから)
――まさか真姫ちゃんがあんなにお酒に弱いなんて思ってもみなかったよ。
(あー…そうだね、ちょっと意外だけど、真姫ちゃんってお酒弱いんだよね。ビール一杯でべろんべろんだもん。なんかお酒飲むと変に性格変わるし、おまけに妙にスキンシップが多くなるしで、アンタはどこぞのセクハラおやじかってくらいに体のいたるところを触ってくるんだよね。主におっぱいとかお尻とか。真姫ちゃんじゃなかったら訴えてるところだよまったく…)
ここ最近では見なくなった真姫ちゃんの酒癖の悪さを思い出しながら苦笑する。
――そして私は……酔っぱらった真姫ちゃんに、休憩とか言われてホテルに連れ込まれた……。
(……????)
何気なく目を通した一文。反射的に止まるカラダ。言葉もない。ただただ疑問符だけが浮かんでは消えた。
――ナニもしないから、休憩だけだから、さきっぽだけだからと言って聞かない真姫ちゃんの口車に乗せられホイホイついていったのが運の尽き。部屋に入った瞬間、真姫ちゃんの中の狼が目覚めた。真姫ちゃんは嫌がる私を組みふせて赤ずきんちゃんよろしく無理やり――、
(んんん??)
――翌日目が覚めたとき、それはすべてが終わったあとだった。ちゅんちゅんということりちゃんの囀りが耳に届くなか、私は生まれたままの姿で真姫ちゃんの腕に抱かれていた。真姫ちゃんも同じように生まれたままの姿だった。何故か肌がツヤツヤしてた。その顔はとっても幸せそうだった。
(…………………。)
――お酒の飲みすぎか頭が割れそうに痛む。二日酔いだろう。昨日のことが思いだせない。何があったっけ? なんて考えた矢先に突きつけられる現実。私は見てしまった。乱雑に脱ぎ捨てられた衣服の数々を。そして乱れたシーツに点々とした赤い血痕を――、
(…………………アカン)
――しばらくして頭が冴えてくると、昨日の出来事を断片的にだけど思いだした。つまりはそういうことなのだろう。妙に腰が痛いのもそのせいだ。股の間に何か異物が入っていたようなこの感じ。私は悟った。悟るまでもなくはっきりと思い出した。
「ま――」
――どうやら私は、真姫ちゃんに初めてを奪われたらしい。
「真姫ちゃんんんんんんんんんんん!?!?」
一夜の過ちはそこで完結していた。
どこまで本当かなんてわからない。けれど決定的とも言えるそれが網膜に飛び込んだ瞬間、私は近所迷惑も考えずに絶叫していた。
そもそもどうして私はこんな大事な事を忘れていたのか。気になることは山ほどあったし、いまだに全部を思い出したわけじゃない。
だけど。
そんなことよりまず、最初に確認するべき重要なことがあったのだ。それさえ判明してしまえば、この話が嘘か本当か一発で判明する。
それは私が(不本意ながら)長年守り続けてきたアレの有無だ。もしこの日記に書かれていることが事実なら、私の絶対防御壁はすでに真姫ちゃんの攻撃を受けて貫かれているということに――。
・・・・にこちゃんチェック中・・・・
どうやら私は、どうあがいても妖精にはなれないらしい。
※
「真姫ちゃんの外道!鬼!悪魔! ま、まさか酔った勢いで私を犯したあげく、バージンまで奪ってたなんて初耳だよ!?」
衝撃の事実発覚に脇目もふらずに携帯を取った私がかける相手はもちろん1人しかいない。
件の鬼畜外道、西木野真姫ちゃんだ。彼女が電話に出た瞬間、開口一番に怒声を放っていたわけだが、
『……“もしもし”くらい言わせなさいよ、まったくもう……』
「そんなのはどうだっていいのよ!それより私のロストバージンの件よ!」
真姫ちゃんは意に介した様子もなく、ただ淡々と、いつものようにめんどくさそうな声で返した。
『ああもう、うるさいわね…耳元でキンキンキンキン…そんな叫ばなくても聞こえてるってば…ていうかこんな深夜に電話とかどういう神経してんのよ…やめてよね…私、明日も早いんだけど…? …ふぁあ』
見ればすでに深夜の2時を回っていた。たしかに非常識にもほどがある時間帯。真姫ちゃんもどこか眠そうだし、もしかしたらもう寝るところだったのかもしれない。ちょっと悪いことしたかも…ってそうじゃないでしょ!
『まぁいいけど…、で? にこちゃんの処女がどうしたのよ?』
「文句言うわりに、ちゃっかり聞いてんじゃないのよ…」
相変わらず対応が悪いけど、今日はそんなことでいちいち文句は言ってられない。
私はいきり立つ憤怒を抑えつつ掻い摘んで説明した。昔書いていた日記を発見したこと。日記の最後で真姫ちゃんとの衝撃の事実が発覚したこと。その話を黙って聞いていた真姫ちゃんは、話が終わると同時に受話器の向こうからでもはっきりと聞こえるくらい大きな溜息をついた。
『あのさぁにこちゃん…それ、何年前の話だと思ってんのよ……』
「5年前よ!」
『はぁ…今更そんな昔の話を持ち出してどうしろって言うのよ…時効でしょそんなの』
「んな!? にこの初めて奪っといてなんて言い草よ! 一生に一度の大事なもんなのよ!? 責任取りなさいよね!」
『にこちゃんだって今の今まで忘れてたくせに…。普通忘れる? そんな大事なこと?』
真姫ちゃんのもっともな言い分に息が詰まりそうになるが、私にも私なりの事情というものがあるのだから仕方がない。と、思いたい。思わせてくださいお願いします。
「い、いやー、私も最初はそう思ったんだけどね。冷静に考えてみたらほら、あの頃ってちょうど就職したての頃だったじゃない? 私も仕事覚えるのに必死だったし、頭の中に色々詰め込み過ぎたせいで、いつの間にか忘れ去っていたというか、なんというか…仕事も忙しかったしね…あはは」
これでは完全にただの言い訳だった。実際、言い訳なんだけど。
『ばかにこちゃん…』
呆れたような口ぶりだった。電話の向こうでやれやれと首をふっている様子が見て取れた。その態度にちょっぴりムッとする。
『私は…一度も忘れたことなかったわよ? あの日のことは…』
「え? 真姫ちゃん覚えてたの? ならなんで言ってくれなかったのよ?」
私が言うのもなんだけど、5年間もだんまりを決め込むとはいい度胸にもほどがある。
『だって、まさか忘れてるなんて思わないじゃない。そんな大事なこと』
ごもっともな発言だった。ぐぅの音も出ない。
『責任取るからって言ったのに……、それなのににこちゃん、あれから何も言ってこないから……、わ、私だってどうしたらいいかわからなかったのよ』
「あ…」
そう言われてふと気付く。思い出す。確かにあの時、真っ赤な顔した真姫ちゃんに「責任取るから!」って言われた気がする。気がするだけで本当かどうかはわからないけど、でも私の記憶は肯定の意を示している。不完全な記憶の中だ、叩けばまだまだ埃が落ちそうだった。
『そ、それに…なんか私だけ悪いみたいに言ってるけど、あの時はそもそも、にこちゃんが私をホテルに連れ込んだんじゃない』
時が、停止した。
言葉の意味を理解するのにたっぷりと10秒ほど思考して、10.5秒後には受話器に向かって吼えていた。
「はぁあ!? はぁぁぁあああ!?!? そ、そんなわけないでしょ? だって日記には真姫ちゃんが連れ込んだって…!!」
思わず反論していたが、何故か心から否定できない自分がいた。それは半分以上肯定しているようなものだったが、焦りが先に立ちすぎて冷静な判断なんてまともにできなかった。
『どんだけ自分に都合のいいように脚色して日記書いてんのよ! 酔っぱらってふらふらな私にイミワカンナイこと言って誘ったのにこちゃんじゃない!』
「う、うそ…?」
『うそじゃないわよ! そ、それにお互い酔ってたけど……え、えっちしたのは同意の上でしょ! いい加減にしてよ!』
「え、えぇえぇぇえ!?」
驚愕の事実の上に、さらに驚くべき真実が段々重ね。正直半信半疑は拭えない。だけど、嘘をつくのが下手な真姫ちゃんが言うと途端に現実味を帯びてくる。それにそう言われると、確かにそんな事があったような気がしないこともない。
(あ、あれ? でもちょっと待って?)
同意の上でしたってことはつまり、お互いその、そういった感情を抱いていたということで…。
そ、そりゃ私、真姫ちゃんのことは好きだけど――あれ?
ちょっと待て。
(好き?)
誰が、誰を?
私が、真姫ちゃんを?
好き?? I LOVE YOU?
「あれ? うそ、え? なんで、ど、どうして?」
さすがにそれだけはないと思いたかった。こんなのどう言い訳してもありえないとしか言いようがない。
なんで私、こんなに大事なことを忘れてたのよ。記憶喪失にでもあってた気分なんだけど本気で。
本当に忘れてた? ううん違う。忘れてたわけじゃない。
(ただ、自覚がなかっただけで…本当は…本当の本当は…)
心の整理もできないまま放心状態を続ける私に、さらに真姫ちゃんからとんでもない一言が告げられる。
『にこちゃんが…言ってくれたのよ? 私のこと好きだって…愛してるって…だから、私…』
ちょっと熱っぽい声で次々と並べられる歯の浮くようなセリフに私は堪らず卒倒しそうになる。
「ちょちょちょちょっと待って!? 待って待ってうそ待って!? なにそれイミワカンナイ!? どーゆーことなの!?」
『どうせ酔っぱらってて覚えてなかったんでしょ…私もそうだったけど、にこちゃんだって相当酔ってたし…』
諦めたように言い捨てる真姫ちゃんだったけど、私はそんな風に割りきれなかった。
酔ってたからとか、社会の荒波に沈んでたからとか、そんなの言い訳にもならないじゃない。
気付けば真姫ちゃんに対する怒りは自分自身に対する怒りと罪悪感に変わっていた。
「くっ…一夜の過ちにそんな事実が隠されてたなんて…! 矢澤にこ一生の不覚!!」
『まぁ、思い出しただけでもお利口なんじゃない?……それで話の続きだけど、今更それを思い出したからって私にどうしろっていうのよ? 責任、取ればいいの?』
え、責任取ってくれるの? とちょっと思ったが、色々な事実が浮き彫りとなった今、それを自分の口から出すことは憚られた。
「あ、ごめん。そこらへんは何も考えてなかったわ、あはは」
と言って笑って誤魔化す。
『はぁ…これだからにこちゃんは…』
「な、なによぉ…仕方ないでしょ、私だって急にいろいろ思い出したせいで結構いっぱいいっぱいなのよぅ」
『しょうがないわね…じゃあ責任ついでに一つ提案があるんだけど』
ここまで来たら真姫ちゃんの提案の一つや二つのむつもりでいた。と言うか今の私に拒否する資格なんてないにも等しい。
「ん、なぁに? 私にできることなら何でもするよ? 私にだって責任あるし」
『えーと…今度私、新しいマンションに引っ越すことになってるんだけど――』
「あー、前に言ってたわね、そんなこと…」
確か「夜になると夜景が綺麗でロマンチックな部屋なんだよ」だったかな。この前飲みに言った時にそう話していたのを思い出す。
そこはさすがお金持ちのお嬢様と言ったところか、私みたいな一般人には逆立ちしたって住めないような高級マンションなのだろう。まったくもって羨ましい限りだ。
「それがどうかしたの? もしかしてただ自慢したいだけ?」
『ち、違うわよ!……だ、だからその…に、にこちゃんも一緒にどうかなって…』
「? どう…って言われても?」
真姫ちゃん風に言わせて貰うなら、ナニソレイミワカンナイだ。
『はぁ、察しが悪いわね、相変わらず。そんなだからいつまで経っても彼氏ができないのよ…』
「くっ…」
痛いところを突かれた。心臓に釘でも打ち込まれた気分だ。事実なだけに反論のしようもない。
「う、うるさいわね…そういう真姫ちゃんはどうなのよ?」
『私? 別にいないけど…って、にこちゃんだって知ってるでしょそれくらい』
「そ、そうだけど……でも今をときめく西木野病院の美人女医様なんだから、言い寄られることだってあるんじゃないの?」
私より年下だけど、年を追うごとに美人さんに磨きがかかる真姫ちゃん。最近ますます真姫ちゃんのお母さんに似てきた気がするし、これで放っておく男なんているわけがない。高嶺のフラワー真姫ちゃんはいまだに彼氏募集中の旗をかかげているのだろうか?
「あとはそう、お見合いの1つや2つしてるとか、さ」
そこまで言ってやると、真姫ちゃんは諦めたように溜息をついた。
『……まぁね、告白されたのだって1回や2回じゃないし、お見合いだって10回くらいは余裕でしてるわ』
「あ、そ、そうなんだ…」
なんだか今日は驚くことばかり。真姫ちゃん自身そういうことを話したがらないせいか、真姫ちゃんの口から直接聞くのは実は初めてだった。
にしても、正直そこまでとは思ってなかった。想像以上の結果になんて返せばいいかわからない。
理由はわかっていた。この胸を覆うもやもやとした不安がそうさせるのだ。
そうして言葉を失っている私に、真姫ちゃんはふっと頬笑んで、私を安心させるような優しい声でこう付け足した。
『まぁでも、片っ端から断ってるわよ、そんなの。お見合い話だって両親が断りきれなくて持ってくるのがほとんどだし、そこは両親も好きにしたらいいって言ってくれてるからね。正直鬱陶しいのよね、お見合いとか。それに、自分の相手は自分で決めたいじゃない? やっぱり』
真姫ちゃんがそう言い終えると、まるで魔法が解けたように胸につっかえていた棘が取れていた。何をそんなに不安に思っていたのか不思議で仕方ないけど、そんな安上がりな言葉だけで安心してしまえる自分は実に単純だと思う。
「ま、真姫ちゃんらしいわね…、でも、そんなにたくさんお見合いしてるなら1人や2人くらい気に入った人とかできそうな気がするけど…」
『……それ、本気で言ってるの?』
「え?」
優しいものから一転、今度は怒ったような声が鼓膜を突いた。
『あの日のこと思い出しといて、今更それはないんじゃない?』
「う…」
無論、考えなかったわけじゃないし、期待だってしていた。だけどあまりにも自分勝手というか、都合が良すぎるというか、まさかそんなことあるわけないと心の中で否定を続けていた。
「えーと、もしかして…、真姫ちゃんが彼氏作ろうとしないのとか、お見合い断りまくってるのとかって、わ、私が原因だったりするのかなー? なんて。ま、まさかそんなことないよねー、あははは」
一瞬の沈黙のあと、真姫ちゃんは照れ臭そうにボソリと、
『…………………にこちゃんのばか』
私の心臓に容赦なくラブアローシュートで打ち込んだ。
「図星なの!? そこは否定しとこうよ! これじゃ私完全に悪者じゃん!」
『実際悪者でしょ? さんざん待たせた挙句、すっかり忘れてたくせに、急にこんな電話してきて…あれから5年以上経ってるのよ? この意味わかる?』
さすがにわからないと言ったら私は首を吊って詫びなければいけない。
つまり真姫ちゃんは、5年間――いやもしかしたらそれ以上前から私のことだけを想い続けていたということに……なるわけで……なんていうか一途すぎるでしょ真姫ちゃん。
「今私、無性に真姫ちゃんに土下座したい気分なんだけど」
『しなさいよ後で絶対』
「あい…、でも真姫ちゃんも真姫ちゃんだよねー、忘れてるかもって思ったなら教えてくれたってよかったじゃん?」
『わ、私から言うなんて恥ずかしくてできなかったのよ! そ、そりゃ言おうとしたのは1度や2度じゃないけど……でもあの後結局、にこちゃんの態度ぜんぜん変わらないし……だから、もしかしたらあの日の事はぜんぶ夢だったんじゃないかって思えてきて…それで』
「あー…なんかホントごめん」
正直もう、私のロストバージンぐらいでつり合いとれるのかあやしいとすら感じてきた。
『い、いいわよもう…それより、どうなの?』
「どうって、なにが?」
『だーかーらー! 今度私引っ越すからって言ったでしょ? 人の話ちゃんと聞いてるの?』
「あーあー、それね、うん、ちゃんと聞いてる聞いてる。んで? 引っ越すから私にどうしろっての? 引越しの手伝いでもしろってこと? 別にいいけど、そんなことでいいの?」
引越し祝いにおいしい蕎麦でも作ってあげようかな。蕎麦って言ったらやっぱ手打ちだよね。ちょっと頑張ってみようかな。なんてぽつぽつ考えていると、受話器の向こうから怒りのオーラが漂ってきた。
あれ? 私何か変なこと言った?
『あーもう!ホントに鈍感なんだから!』
「ど、鈍感って…」
『手伝いとかそうじゃなくて! にこちゃんも私の家に一緒に住まないかって言ってるのよ!』
「へ…は…?」
一瞬、何を言われているのか理解できなかったけど、その意味を理解するのにそこまで時間はかからなかった。
「えぇぇぇぇぇ!!!」
『な、なによ…』
「ええええとえと、そそそれってつまり」
内心もうドキドキのバクバクで、上下感覚どころか、自分がどこにいるのかすらわからなくなっていた。
私はいったん呼吸を整え、ごくりと生唾を飲み込みつつ、確かめるように聞き返す。
決定的な一言を持って。
「ど、同棲しようってこと?」
『……………いやなの?』
「い、いやじゃないよ!いやじゃないんだけどさ!さすがに話が急過ぎてついてけないっていうか、なんていうか…もうちょっと考える時間が欲しいかなって、ははは」
『も、もちろん今すぐ決めろってわけじゃないけど……でも、考えてくれるの?』
「う、うん…そりゃ、ね。で、でもその、本当に私でいいの…?」
『ばか……いいに決まってるでしょ』
たった一冊の日記帳がここまでの珍事を巻き起こすとは、やっぱり人生とは何が起こるかわからない。
私と真姫ちゃんの甘酸っぱい同棲生活が始まったのは、それから1ヶ月後のことだった。