3/17はトトリ先生の誕生日って事でお祝いSS。
追記からどうぞ。
ねえ 誰のために旅をしているの?
そして なぜ悩み続けるの?
答えは分からぬまま
瞳を閉じた
『――そうだミミちゃん! ゆびきりしようよ!』
『な…ど、どうして私がそんな…! こ、こっぱずかし事をしないといけないのよ!』
『えー! 恥ずかしくないよう。二人で世界一の冒険者になるって決めたんだもん。ぜったい二人で外の世界を冒険しに行こうねって言う、約束の証だよ?』
『そ、そんな事しなくたって、もう行くって決めたじゃないのよ!』
『そうだけど…でも、やっぱりこう言うのは気持ちの問題だし……ねーいいでしょーミミちゃーん!』
『わ、分かったわよ! 分かったから一々引っ付くのはやめなさい!』
『わーいやった! それじゃあはい、ミミちゃん』
『ん…』
『じゃー行くよー。ゆーびきりげんまん!』
『う、うそついたら…』
『はりせんぼんのーます!』
『『ゆびきった!』』
―――そう、約束したよね…うん…私はあの日…確かにミミちゃんと約束を……
*Again~Pilgrimage~*
「ん…ふぁ…あれ…私、寝てた、のかな…?」
意識を失っていたのはほんの僅かな時間。それは一分にも満たない一瞬の出来事のように思えたが、トトリはまどろみの中で、確かにあの日の光景を夢に見た気がする。
トトリは完全な意識の覚醒の後、軽い溜息をついた。
あれ以来、度々夢に見るようになった情景は、歳を重ねる毎に頻度を増し、最近は毎日のように夢に見るようになった。だからトトリは「ああ、またあの夢か…」と何をするでもなく、諦めたような表情で頭を振る事しかできない。
「…約束、か…」
懐かしきあの日の出来事は、今もトトリの胸にしっかりと刻み込まれている。それは約束されたはずの未来だったはずなのに、終ぞ叶える事の出来なかった願い――。
トトゥーリア・ヘルモルト。通称、トトリ。彼女がアーランドに数人といない錬金術師であることは誰もが知る事実で、それは自身の弟子であるメルルを除けば、彼女の師匠ロロライナ・フリクセルと、そのまた師匠のアストリッド・ゼクセスの計四人のみの、まさに片手で数えられるほど希少な存在――。
そんな彼女もかつては冒険者として活動していた時期があり、またここアールズでそれを知る者は少ないが、かの勇名高き冒険者ギゼラ・ヘルモルトの娘でもある。
思い返せば長い話になるが、それは行方不明の母を捜すための険しい旅だった。姉であるツェツィの反対を押し切り、母より受け継いだ不屈の冒険者の血に誘われるままに、彼女は冒険者として目まぐるしい活躍を見せたのは、もはや記憶に古い出来事。
その身に似合わず勇猛果敢に、川を越え、山を越え、谷を越え、いつしか海さえも越えたトトリは、母ですら成し遂げられなかった魔物を打ち滅ぼすまでに至り、一流の冒険者として恥じないその姿を他多数の冒険者に見せつけた。
あるいは第二の伝説として人々の記憶に刻まれていたかもしれない。しかしその後トトリに待ち受けていたのは……。
ある日トトリの前に、冒険者としてではなく、錬金術師として、アールズへの開拓協力の話が持ち上がった。
当然、冒険者として活動を停止せざるを得なくなったトトリは、やむなく冒険者の資格を返却し、冒険者を“辞めた”。もちろん彼女からすれば本意であるはずがない。
それは『約束』の日から丁度一年後の出来事。彼女が十九歳の時。無論、彼女にとって未練を残す形となったのは言うまでもなく、言い訳も誤魔化しもせず、トトリは等しくそれを裏切りと呼んだ。
いっそアールズ行きの話が出る前に事を起こしてしまえばよかった。そんな風に後悔に苦しんだのは一度や二度じゃない。しかし今更後悔したところで過去に戻れるわけもなく、彼女はいつしか考えることを止め、あの日の約束だけをそっと胸に仕舞い込んで思い出に変えた。
本当なら、諸々の事情でそれは仕方のないことだと正当化する事もできた。でもトトリはそれをしなかった。出来るはずもなかった。何故なら――。
―――彼女との約束を破ってしまったのは、紛れもない事実なのだから。
あれから月日は流れ、トトリももうじき二十四歳になる。五年と言う長い歳月を費やし、残酷にも、ただひたすらに時間だけが過ぎ去っていくという現実をその身を以て感じていた。
「…はぁ…」
あの日、胸に巣食ったモヤモヤは年を追うごとに大きくなっていく。日に日に増していく溜息は、彼女の憂鬱を写し出す鏡。その心は未だ、過去に囚われている。あの日置き去りにした想いの欠片の行き場所を探して、彷徨って、堂々巡りを繰り返す日々が続く。
「…あと、一ヶ月かぁ…」
トトリは意味深な呟きを放つと、鞄から取り出した名も無き首飾りを天高く掲げた。
虹のかけらの首飾り。この世に二つとしてないトトリのためだけに存在するそれは、眩しい太陽の日差しを浴びて、その名が示すとおりの輝き様を見せる。
「…あと、もうちょっとで…終わりなんだよね」
透き通るような虹の光をその身に浴びながら、放心した様子でぼんやりと呟き続ける。しかしトトリには、それが終わりではなく、始まりを意味していることを誰よりも理解していた。なのに真意とは裏腹に、トトリの願いは思いもよらぬ方向へと流れるのだ。
―――いっそ時間なんて止まってしまえばいいのに…。
だが、彼女の意に反して時間は刻一刻とその時に向かって進みゆく。時の流れに逆らえないのが人間。その時が近付けば近付くほど、彼女の心は強くざわついた。
トトリの不安とする日は、そう遠くない未来。彼女には、どうしても切り捨てる事の出来ない悩みがある。それがあの日の『約束』に起因している事は彼女が一番よく理解している。
「…どうしよう…どうしたら、いいんだろう…」
アールズのアーランド合併式典――。
それがトトリの目下の悩み――と言うのは些か語弊があり、それ自体は特に気にするところではなく、むしろ喜ばしい事。
が、問題はその後。
今はこうしてアールズの開拓協力に尽力しているトトリだが、本来は師匠であるロロナが赴くはずだった事業である。しかしそれも、アールズがアーランド共和国へと無事合併が済めば、トトリは晴れて御役御免となるわけだ。
そうなればトトリは、長きに渡るアールズ生活を終え、アーランドにある自身の生まれ故郷アランヤ村へと帰る事になるわけで、それはトトリにとっても、とても喜ばしい事だった。
だがそれは同時に、苦い想いを残して逃げ出した過去と向き合う事も意味している。彼女の真の悩みは、アランヤ村に戻った後に待ち受ける――、
―――『自分の未来を選択する』と言う事。
だがトトリの中には、既に選択肢は用意されていた。むしろ『それ』以外の選択など意味を成さない。選ぶべき未来なんて最初から決まっている。
にも拘らず、トトリは最後の一歩を踏み出す勇気を持てずにいた。それはやはり、あの日から費やした長い歳月が生み出した産物だと言える。
(…約束…したから…ね)
心に紡いだ言葉とは裏腹に、彼女は嘆いていた。
真の望みであるはずなのに、ここまで意欲が出ないのは何故なのか、トトリは自分の心に問いかけるようにしてそっと目を伏せた。
しかし考えるまでもなく答えは出た。所詮自分がやろうとしている事は、自己満足でしかないのではないかと思っていたからだ。
(…一度…切られた指は…もう二度と元には戻らない…)
過去はどうやったって変えられない。それこそ錬金術を使っても不可能だと思う。無かった事にしようなんて、そもそも出来るはずがなかった。それは自身が望んだ未来へと続く第一歩でもあったのだから。
(…ゆびきり…したのに…)
果たしたい。果たしたかった。なのに、果たせなかった。あなたとの思い出。それは忘却など決して許されない確かな道標となって、頭の一番奥深くに根付いた記憶。
あの日、あなたと交わしたはずの契り、それは今も蕾のまま時が止まっている。それでも今も私の心の奥底にひっそりと息衝き、花開く日を待っている。
私の願いそのままに、あなたの隣を歩む未来を夢見ながら。
いつの日か、その時が訪れるのをずっと――。
「もうどうしたらいいかわかんないよ…誰か、教えてよ…」
そんな風に想いを募らせるトトリの下に、噂をすれば影が差す――。
「トトリ?」
ふいに、背後から名を呼ぶ声にトトリはハッと我に返る。
己の世界から強制的に戻され、その聞き慣れた、あるいは一生忘れる事の出来ない声が鼓膜を振るわせるや否や、振り向くより先に、空に翳したまま彷徨い続けていた虹のかけらの首飾りを咄嗟に鞄に突っ込んでいた。
なぜそうしていたのか、トトリにもわからない。半ば無意識の判断だったが、なんとなく気恥ずかしさを覚えていたのも事実。あるいは首飾りを贈った本人だったからなのかもしれないが。
トトリは少し乱雑に首飾りを押し込みながら、一息ついてから振り返る。振り向き様に目に飛び込むその人物は、やはりと言うか何と言うか、彼女が予想した通りの人物。
身の丈以上もある槍を肩に担いで、艶やかな黒髪を揺らしながら佇むその姿に、トトリは一瞬見惚れていた。彼女とは長い付き合いであるにも拘らず。
「ミ、ミミちゃん…?」
トトリがその名を呼ぶと、途端に返ってくる不機嫌そうな顔。
「むっ…何よ? そんな幽霊でも見たような顔して。私が居ちゃ悪いっていうの?」
ミミは頬を膨らませると、プイッとそっぽを向いた。
トトリは自分の失態に気付き、大慌てで手を振り乱して、
「う、ううん! そんなことないよ! ただその…急に呼ばれてビックリしただけだから」
「そ、そう? ま、まぁ急に声かけた私も悪いわよね…」
「そんな、ミミちゃんは何も悪くないよ。悪いのはボーっとしてた私なんだから」
トトリの返答にどこかホッとした様子のミミ。もしここで冗談でも「居ちゃ悪い」なんて言われた日には、それこそミミは立ち直れなかったかもしれない。
トトリがミミに与える影響力は、ミミが思っているよりずっと大きく深く根強い。それにミミが気付いているかどうかは激しく疑問だが。いや、むしろ気付いていたとしても認めたくないと思うのが、ミミのミミたる所以ではないだろうか。
「その…隣、いいかしら?」
「え? う、うん…いいけど」
ミミはトトリの傍に寄ると、携えた槍を傍らに突き立てて、トトリの横にすっと音も無く腰掛けた。
すると…、
―――ビュォォ~~!!
まるで狙い済ましたようなタイミングで、一際強い風が二人の前を通り過ぎる。
「風、強いね…」
「そうね。まぁ、年中風が吹いてる所だし、仕方ないわよ」
二人は乱れる髪をその手で押さえながら風が収まるのを待ちながら会話を続ける。
「うん。高いところにあるからね。おかげで風車がよく回るよ」
「…少し、回り過ぎのような気がするけど…」
「あはは…」
アールズ王国の東に位置するここは、トロンブ高原と呼ばれる採取地。
年がら年中強い風に吹かれている場所で、数年前に開拓事業の一環で風車小屋が設置されたのは記憶に古い。
今日も今日とて元気よく、ガラガラと大きな音を立てながら風車は回る。それはこの地では既に見慣れた光景となっていた。
「そういえば、メルルちゃんはどうしたの? 一緒じゃないの?」
トトリは一緒に出掛けてきたはずのメルルの姿がない事に気付き、首を傾げながら尋ねる。しかし何故かミミは心底疲れたような顔をして肩を落とした。
「メルルならここに来る前に、珍しい素材を見つけたとか言って跳んで行っちゃったわ。『あっ!? あれは見たことない素材かも! 私ちょっと見てきますから、ミミさんは先にトトリ先生のところに行っててください!』――って。まったく、少しは落ち着きなさいってのに」
「え、えーと…お、置いてきちゃって良かったのかな? 魔物とかに襲われたら…」
アーランドの冒険者ギルドから、メルルの護衛任務を請け負うために派遣されたミミ。無論それは任務放棄に他ならないわけで、良くも悪くも素直が取り柄のトトリは「ミミちゃん、仕事しなくていいの…?」と、思った事をそのままボソリと呟いていた。
そんなトトリに「確かにそうね…」と、ミミは軽く溜息を付きながら頭を振るうと、
「トトリの言う事も尤だけど…でもそんな心配いらないわよ」
「え、どういうこと?」
「ここら辺の魔物はあらかた片付けたし……それにほら、後ろ」
「後ろ?」
見てみなさいよ、と言わんばかりに正面を向いたまま指で背後を指し示すミミ。それに吊られるようにしてトトリの視線は自然と後ろを向くと、
「え?……あ」
その指先を目で追うと、トトリはすぐにミミが言わんとしている事を理解した。
「メルルちゃん…こんなに近くにいたんだね…」
「ね? 大丈夫でしょ」
「そ、そうだね…」
ミミの言う通り、メルルはすぐに見つかった。
小高い丘の上に腰掛けるトトリとミミの少し後方。距離にして十メートルほどだろうか。黄色や赤と言った鮮やかな草花で覆われた一角に彼女はいた。何やら小難しい顔をして「うぬぬ…な、なるほどぉ」と、理解しているのかいないのか判断に困る表情でうんうんと頷いている。
(これなら大丈夫そう、かな?)
確かにこの距離なら容易に護衛活動に専念できるだろうとトトリは思ったが、ただいつものミミなら、例えどんなに距離が近かろうが、メルルの傍で護衛の任についていたはずではなかっただろうか。
トトリがそれに気付かなかったのは、ミミにとってこれ幸いだったのだろう。何故ならそれをしなかったのは――あるいは出来なかったのは、トトリに原因があったからに他ならない。
―――ミミの目に映ったトトリの背中。
それは彼女が何を賭してでも護ると誓ったもの。それが、あの瞬間、今にも儚く消えてしまいそうで、ミミには我慢が出来なかった。
無意識に手を伸ばしていた。堪らずに声をかけていた。意識と無意識が混在する中で、ミミはただひたすらにトトリを想う。ただ、それだけの話なのだ。
『こ、これって世紀の大発見かも! も、もしかして私が第一発見者とか…? こ、これは遂に私の名前を冠する素材が誕生するんじゃないの!? や、やばい…そう思ったら涎が…じゅるり!』
メルルが平穏無事に採取活動に勤しむその姿を横目で見つめながら、二人はクスっと笑みを漏らす。シリアスには到底不釣合いなメルルの元気な声に、悩んでいたのがバカらしく感じる。
「ふふふ、メルルちゃんもだいぶ錬金術師として板に付いてきたね。あれならもう、私がついていなくても大丈夫かな」
「へぇ、師匠の目から見てそうなら、あの子も大したものじゃないの」
「うん、そうだね。最近は教える事も少なくなっちゃったし…って言うより、実はもう教える事なんてほとんどないんだよね。メルルちゃんはもう、ロロナ先生や私にだって負けない一人前の錬金術師だよ。むしろ今度は、メルルちゃんが誰かに教える番かな」
「そう…本当に立派になったのね、メルルは」
「うん…」
どこか寂しそうにトトリは頷く。弟子の成長を嬉しく思う気持ちがほとんどだが、その反面、寂しい気持ちが無かったと言えば嘘になる。メルルの先生として、もうしばらく彼女を見守り続けたいという僅かな気持ちがあった。
だけど、いつの日かメルルの前に、ロロナにとってのトトリや、トトリにとってのメルルのような誰かが現れる事を、誰よりも願っているのは他ならぬトトリである。
受け継いで欲しい。そして継いで行って欲しい。メルルがこれまでの歳月で培ってきた錬金術師としての想いや願いを、同じく錬金術に魅せられた誰かに――。
(私の分まで――ね)
それからしばらく二人の間に無言が続いたが、そこはさすが親友と言うべきか、居心地の悪さなど微塵も感じない穏やかな雰囲気の中、見渡す限りの雄大な自然をぼんやりと眺めながら二人の時間は風と共に過ぎていく。
「………」
ミミは無言で、ちらりとトトリの横顔を見やった。いつもと変わらないはずなのに、やはりどこか違うと感じるそれは、常日頃からトトリの事をよく見ているミミだからこそわかる違い。
ミミは少しの間考えるように俯くと、軽く頭を振ってから顔を上げた。今日こそは――と言う強い意思を秘めた瞳をトトリに向けて、
「ね、ねぇ…トトリ?」
「…ん、どうかしたの?」
そのセリフはそっくりそのままトトリに返したい。そう思うミミだったが、
「何か…気になる事でもあるの?」
「え!…ど、どうして?」
「そ、その…最近、よく考え事しているようだったから…何かあるのかと思って」
「っ…」
トトリは息を呑んで目を見開いた。それは誰の目から見てもわかる動揺。隠し切れないそれを誤魔化すようにトトリは顔を逸らす。
ミミは、トトリが何かに悩んでいる事に気付いていた。それが何かまでは分からずとも、トトリの異変はずっと前から感じ取っていた。最初に異変を感じたのは二、三ヶ月くらい前だろうか。そして確信を以って言えるようになったのはここ最近だった。
「も、もし悩みがあるんだったら、そ、相談くらい乗ってあげないこともないわよ!」
ミミは頬を赤らめながらそう言い切る。その言葉を訳せばつまり『是非とも相談して欲しい』と言う事で相違ない。
「も、もちろん無理にとは言わないけど…」
「……」
トトリは無言を貫きつつ思案する。悩み事の主である本人に相談なんておかしな話かもしれない。自分の問題なのだから、自分で解決するべきだという気持ちも確かにある。しかしトトリは、改めてミミの優しさに胸を打たれていた。きっとそれがトトリの心を後押ししたのかもしれない。
「その、ね…これからのこと、考えてたの」
トトリは真の悩みの種であるミミの名前を出さないようにして、言葉を選びながら語る。
「これからの、こと…?」
「そう。アールズとアーランドが合併したら、私たちの仕事もひとまず終わるよね」
「そうね。私たちはあくまで、アールズの開拓協力として派遣されている身だし…」
「そしたら、アーランドに戻ることになるよね」
ミミはトトリが言わんとしている事を思案しつつ「トトリはアランヤ村に戻るのよね?」と問う。トトリは「うん」と軽く頷いて見せた。それを聞いたミミは「そう…」と意味ありげに呟いた。
「ねぇミミちゃん、ミミちゃんはアーランドに戻ったらどうするの?」
「それは……もちろん冒険者としての仕事に専念するわよ」
「それはやっぱり…家名を上げるため?」
「ん…前の私だったらそうだったんでしょうけどね。でも最近は、家名を上げるためとか、あまり拘りはないの」
そうなんだ? と少し驚いたように問うトトリに、ミミはクスっと微笑み頷いた。そう思えるようになったのは、トトリのおかげであるところが強いと、ミミは自覚していたから。
「今はね、一冒険者として、色々な世界を見て回れたらって思ってるわ。アールズやアーランドだけじゃない、未だ誰も見たことのない、地図にも載っていない新天地を探して、旅をしたいなって…」
「そ、そっか…すごいね。うん、やっぱりミミちゃんは凄い…」
トトリは一瞬、「私も――」と言葉を口にしそうになるが、寸での所で飲み込んだ。
「その…トトリはどうするの? アーランドに帰ったら…」
「ん…実はその、もう決まってるんだ、やりたいこと。何をしたいか、何をするべきか」
だけど、その一歩を踏み出せない。トトリには一番大事な何かが欠落していた。
「そ、そう…。それは、私が聞いてもいい話?」
「……」
トトリは迷う。聞かれる事を承知で打ち明けたにも拘らず、やはりその一線だけは越えられずに口を噤んだ。
ミミも、トトリのその雰囲気から何かを感じ取ったのだろう、途端に寂しそうな顔で黙り込んでしまったが、それでもこのまま終わりたくないと言う気持ちがミミを後押しした。唇をキュッと噛み締めて、瞳をギュッと閉じて、胸に秘めた想いを糧に最後の力を振り絞る。
「ね、ねぇトトリ! も、もし良かったら、私と一緒に――!」
もう一度――。
「え?」
しかしミミの言葉は、トトリの耳に入る前に見事なまでに掻き消される。それは言葉を発したのとまったくの同時。背後からの「ミミさーん!ちょっといいですかー!」と言う、ありあまる元気を最大限に放出した大声と被さってしまう。
ミミとしては残念無念以外の何物でもない。なにせミミの今後に関わる一世一代の告白?だったのだから。もう一度その言葉を口にするのは、それこそ勇気が百あっても足りなかった。
「ミミちゃん? メルルちゃんが呼んでるけど…」
「え…あ…その…」
疑問符を浮かべるトトリに、ミミは真っ赤な顔で口をパクパクさせながら、「くっ…」と苦虫を潰したような顔で項垂れる。
(あ、あとちょっとだったのに…! まったく、空気の読めない子ね!)
ミミは心の中で人知れず憤慨し、メルルに怒りの炎を燃やした。この時ばかりは護衛対象に刃を向けたい気分だったが、根っからの真面目気質なミミにそれが出来るはずもなく、盛大な溜息の後にすっと立ち上がった。
しかしこの時ミミは気付いていなかった。むしろ気付くわけもない。自然なように見えて、実は不自然極まりないメルルの妨害。
―――メルルのそれが、意図してのものだったとしたら?
「はぁ、仕方ないわね…」
「あっ…」
踵を返してメルルの下に向かおうとするミミに続くようにして、トトリもその場から立ち上がる。
「わ、私も一緒に行くよ。待ってミミちゃ…っ」
離れていくミミの背中に手を伸ばしかけたその時。
―――トトリの手が、ふとピタリと止まる。
(…な、んで…)
トトリは動けなかった。
(…とっても近いはずなのに…)
その手だけを伸ばして。
(…どうして、こんなに遠いの…?)
心の中でそう呟きながら、その目に映るのは幾度となく見てきたはずのミミの背中。
華奢なように見えるけれど、とても大きくて、それは彼女が冒険者として培ってきた経験や誇りの全てが詰まっていたように思えた。
手を伸ばせば届く距離にあるはずなのに、なぜかトトリには果てしなく遠くに感じる。今の私では決して届かない、追いつけないと、トトリは焦り、心の中で嘆いた。
(やだ…置いていかないで…ミミちゃん…)
トトリは錯乱したように頭を振り乱して否定する。
(ううん…違う…違うよ…最初に置いていったのは私の方だもん…。ミミちゃんは何も悪くない…私が全部、悪いんだから――!)
歪む視界の中、瞬きする度に瞼の裏に映るのは、遠いようで近い日の記憶。それがトトリの頭の中に走馬灯のように雪崩れ込む。
(本当は私ね…、アーランドからミミちゃんが派遣されてくるって知った時、ミミちゃんと会いたくなかったの…)
それはアールズでの再会。トトリはミミと再開することに一種の恐怖を覚えた。一番会いたいはずの人が、一番会いたくない人でもあったのだ。なのに…、
(でも、ミミちゃんは何も変わってなかった…)
いざ再開してみると、ミミはあの頃と変わらずに自分と接してくれた。そんなミミの優しさに甘えて、トトリは自分の心に蓋をする事に決めたのだ。
―――あの日の事は、無かったことにすればいい、と…。
しかしそれは不可能にも等しく、残酷なまでにトトリの心を蝕み続けた。むしろその事に対する引け目がトリガーとなって、あの日の情景を夢に見るようになったのではなかったか?
(いっそ…恨んでくれた方が楽だった…のに。なのに、なんでそんな風に笑っていられるの? 私、ミミちゃんとの約束、破っちゃったんだよ…?)
トトリは鞄に突っ込んだままの手で、潜めた首飾りをギュッと握り締める。ミミから貰った友情の証であるそれも、あるいは貰う資格などなかったのではないだろうか。そう言う思考を捨てきれないから、この首飾りを堂々と首に掛ける事ができないのだ。
(…私は…貰うだけ貰って…ミミちゃんにまだ何も返せてない…)
一緒に居れば居るほど惹かれるあなたの背中。
今はまだその背中に寄り添い、隣を歩く事は許されない。
だから…と、トトリは思う。
「トトリ? どうしたのよ、早く行くわよ?」
「うん…今…行くよ…」
ミミの、彼女のその純粋なる想いに応える方法。
それはやはり、たった一つしかない――。
*
きっかけは、ある日突然トトリの前に差し出された。
彼女にとっては、ある意味最高の人物からの贈り物と言えたかもしれない。これが運命だと言うのなら、神様は実に気まぐれだ。
アールズ王国開拓から、丁度五年後の四月一日、遂にその日はやってくる。アールズとアーランドの今後にとって、とても重要な日となる今日。
アールズ王国のアーランド共和国入りを決める式典はもう間も無く執り行われる。
「――トトリ先生? トトリ先生ってば、聞こえてますかー?」
その大事な式典の主賓の一人であるメルルは、どこか上の空で物憂げな溜息を付いて、ソファに腰掛けていたトトリに話かけていた。
「へっ…あ、ご、ごめんなさい、どうしたのメルルちゃん? 今日はこれから大事な式典があるんでしょ?」
「そうなんですけど、最後にトトリ先生とお話したいなって思いまして。あ、ここで言う最後って言うのは『王女として』って意味ですからね? 今生の別れとか、そう言うんじゃないですからね?」
「ふふふ、うん。分かってるよ、私もメルルちゃんと少し話したいなって思ってたから」
「そう言って貰えると嬉しいです!」
トトリとメルルは、出会いからこれまでの出来事を、思い出を振り返りながら楽しそうに語り合った。
時折、トトリが故郷に戻ると知ってメルルが泣き付く場面も見受けられたが、トトリの「大丈夫だよ、トラベルゲートがあれば一瞬だから」の一言で概ね丸く収まりを見せる。
そんな長いようで短い思い出話もひとまずの終わりを迎え――、
「メルルちゃん…そろそろ」
「あっ…結構話し込んじゃいましたね。それじゃ不肖わたくしメルル、王女として最後の大仕事に行ってきます!」
ビシっと綺麗な敬礼を決めたメルルは、何かを思い出したように「あっ」と声を上げる。
「…と、その前にトトリ先生に一言言っておかなくちゃいけない事がありました。ていうかむしろこっちが本題なんですけど」
「え、どうしたの、そんなに改まって…」
それはメルルにとって――否。トトリにとって重要な意味を持つ事を、当然この時のトトリは知る由もない。
メルルは軽く深呼吸をして、おっほんとわざとらしい咳払いをした。それからしっかりとトトリの目を見据え、そっと言葉を紡いでゆく。
「トトリ先生が何に悩んでいても、やっぱり一番大事なのは『トトリ先生がどうしたいか』だと思いますよ」
思いがけない言葉を聞いて、トトリは目を見開いた。一瞬驚いたような素振りを見せたが、すぐにふっと笑みを漏らす。
「……知ってたんだね」
「ふふふ、ミミさんほどじゃないですけど、私だってずっとトトリ先生の傍で、トトリ先生を見てきたんですから。当たり前の事ですよ」
「そっか、当たり前かぁ…」
メルルは「はい!」と大きく返事をして、歳の割に幼さの残る無邪気な笑みを浮かべる。
「ねぇトトリ先生。トトリ先生のやりたい事に、周りなんて関係ないんです」
「…そう、なのかな…」
「はい! 遠慮なんてしないでください。トトリ先生がやりたい事を、やりたいようにするのが一番なんです。それを止める権利なんて、どこの誰にもないんですから!」
「どうしてそんなにはっきり、私にやりたい事があるってわかるの?」
「そんなの決まってるじゃないですか! 女の勘です!」
あまりにも自信満々に胸を張るメルルに、トトリは苦笑を浮かべる事しか出来ない。
「……たとえ、トトリ先生の過去に苦い思い出があったとして、もしそれで誰かに引け目を感じて、その生き方を選べないんだとしても、それでもやっぱり過去は過去でしかないんです。確かに、たまには過去を振り返ることも大事なのかもしれませんけどね。それでもやっぱり、一番大事なのは未来に繋がる今なんだと思います」
「うん…うん…」
その言葉の持つ力に、長らく心を縛り付けていた鎖が解けいくみたいに穏やかな表情を見せるトトリ。温かい何かに心が包まれ自然と笑みが零れた。
「ねぇメルルちゃん。もしやりたいようにやった結果、それでも報われなかったら?」
「その時はその時ですよ! ほら、よく言うでしょう? 当たって砕けろって!」
「ふふふ、砕けたらイヤだけどね」
「私もイヤです! あはは♪」
二人は顔を見合わせて一頻り笑い合った。
弟子から師匠に贈られた最後のプレゼント。
それがトトリにとって、意味ある一歩を踏み出すための力となったのかどうか、それはこれからのトトリの選択に全てがかかっている。
「メルルちゃん、ありがとう。私、やってみるよ」
「はい! 頑張ってくださいトトリ先生! 私も草葉の陰から応援してますから!」
お節介で空気の読めないところも多々あるけれど、とても優しく真っ直ぐに成長してくれた弟子を、今日ほど誇りに思った日はないトトリだった。
トトリの心は今、きっとアールズの空のように、晴れ渡っている。澄み切った青空のように晴れやかな顔をした彼女を見れば、誰もが口を揃えて言うだろう。
「……きっと、あの人もトトリ先生のこと、待ってると思いますよ……」
メルルの最後の呟きは、誰の耳にも届く事はなかった――。
<後編へ…>